ごきげんよう
カメラを片手に塾生が紅葉の息吹を受け取りに。
新米が炊き上がった白い湯気を見ただけで、心の奥がふっと温かくなります。今年は「お米」に関してのニュースが多かった一年でしたが、だからこそ、あらためてお米の本当の価値について、少しだけ昔の話を交えながら、呟いてみようと思います。
私達の主食であるお米は今からわずか150年ほど前まで、現代の〝お金と同じ価値を持つ〟食べ物でした。お米は単なる主食としてではなく“富”そのものとして扱われ、武士の給料や村々の豊かさは、お米の収穫高で測られていました。人々の生活を支え、命を養い、社会の基盤となっていたお米はまさに暮らしの中心に据えられた存在だったのです。つまり、まさしく暮らしの指標であり社会の土台そのものであったのです。
日本ではさらに、お米は“神さまからの授かりもの”として大切にされてきました。毎年11月に神社で行われる新嘗祭(にいなめさい)は、その年の新穀を神前に捧げ、恵みを感謝する、今でも一年間で最も重要な神事のひとつされています。真っ先に天皇自らが新米を神に捧げ、そのあと私達もいただくという古代から連綿と続く儀式は「お米は命をつなぐもの」とする、お米に日本人の祈りの心を刻んで来ました。だから、長い歴史の中でお米=神聖なものという意識を倭人は心に刻んできたのでしょうか?
また、いにしえの言葉には、お米への深い敬意と感謝が息づいています。
お米は命を育てる「命の師匠」だから“命師(いのちし)めし”。
身体を形づくる“身の師”だから“身師(みし)めし”。
稲は“飯の根いいのね”であり、それはすなわち“命の根”。
健康で長生きすることを「寿根(いのちのね)」と言い、
「寿いのちは飯中(いいのうち)」――いのち(寿)はご飯の中にある、とも伝えられています。
いつぞやの講習会では、お米の話をいたしました時、稲荷とは『人の心身皆稲なれば人は常に稲を荷っている』とも伝えましたね。
どの言葉も、お米にはお米をただの食べ物ではなく“命を授ける師”として敬い、
自然と人とのつながりを見つめてきた先人の感性が宿っています。
こうした言葉を思い出すと、私たちが普段口にしている一粒一粒が、どれほど多くの恵みと祈りの上に成り立っているのかを、あらためて感じずにはいられません。なのでその年の新米を福米”として申して感謝を抱きながら先人たちは戴いて来ました。感謝の気持ちを込めながら大切にいただきたいものです。忙しすぎる現代人も、もし、炊き立ての新米にご縁があられますと、感謝を込めて戴くチャンス到来と捉えてお召し上がりくださいませ。
豊かな福を授けて頂く福米
福米がもたらす幸縁
命の根、暮らしの根、感謝の根
一粒一粒が人生の根幹をなしている様に思います。 2025.11.21 by tayu